別冊スマイル|テンカラに癒される不思議な世界 中野昌樹

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WASEDABOOK_01.jpgエルドラド国立森林内のブラックベアールビコン川 出発点.jpgルビコン川、このポイントを出発点にした。WASEDABOOK_03.jpg本日の収穫、レインボートラウト












 自分の左に針葉樹の香り、右には水の匂いを確かめながら、朝日を眩しく東に歩き出す。息も白く肌寒い。背中のインターナルフレームのバックパックのストラップを調節する。余分は省いたが、星を見ながらの酒が入っているのでいくらか重い。トレッキングポールを持ち直し、また歩き始める。

 ここはカリフォルニア州を南北に走るシエラネバダ山脈、エルドラド(Eldorado)国立森林の中。サンフランシスコから約240キロ東北に位置する小さなジョージタウン(Georgetown)の町を東にさらに40分進んだところに車を止め、私は歩いている。

 私の右側にあるのはルビコン川。この群青の美しい表情を持つルビコンはここから10マイル(約16キロ)上流のヘルホール(Hell Hole)湖を水源とする。またそこは私の目的地でもある。が、そこに到達してもしなくても全く問題はない。

 バックパックには必要なギアは全て入っている。目的地につかなくとも、寄り道しようとも自分の自由で、これが私にとってパックパッキングの最大の楽しみであり喜びだ。しかも、川へのアクセスができる度に私はテンカラ釣りでトラウトをスポーツとして釣ることもできるし、食料として得ることもできる。

 今回は一人でのソロ・バックパッキングなので、慎重でなければならない。かなり歩いた後で怪我をしたり、クマに襲われたりガラガラ蛇に咬まれたりしたら命取りとなり得るからだ。ポイズンオークは触るだけで肌がかぶれ無数の水泡ができる。これらの危険は、旅を楽しむためにも是非避けたい。急な雨に濡れるだけで、低体温症になる恐れもある。山の夜は寒い。濡れた服だけでも生命を危険にさらす事になる。”Cotton kills.”という山の言葉があり、山には綿の服は着て行ってはいけないという警句だ。綿はいったん濡れたらなかなか乾かず保温性が著しく落ちるからだ。濡れても乾きやすいポリエステルの服が好ましい。

 必要品すべてを背負うわけだが、シェルター(テントなど)、寝袋、食糧、水、雨具、コンパス、地図、ナイフ、ヘッドランプ、フリント(火打石)は欠かせない。スリーピングパッドだけで満天の夜空を見ながら寝ることもできるが、やはり蚊が出るようなところではテントが欲しい。料理する場合はメス・キットやストーブも必要になる。今回は川で水を汲むことが出来るので、フィルターを携帯する。どんなに清らかに見える水でも線虫やバクテリアが潜んでいることがあるので水は沸騰させるかフィルターを通したほうが安全だ。特にここではGiardiaという鞭毛虫がバックパッカー達の腹下しの原因になっている。以上のものに細引きや薬などが加わる。

 日本酒、スコッチとトレッキングポールを含めて13キロ。テンカラ釣りのギアはいたってシンプルで竿、ラインと毛ばりを含めて100グラムだ。持っていくことになんの負担を感じない。しかも、この日本の伝統釣法から得られる楽しみは計り知れない。旅の日程を延ばしたとしても、道に迷ったとしてもテンカラのギアがあれば水と魚で何日かは食いつなぐことができる。私にとってナイフに並ぶサバイバルツールになる。

 ルビコン川沿いに東に歩いていくと、1マイル内に4つの小さな名も無い滝を渡る。さらに登ると美しいルビコンのゴルジュがはるか右下に見下ろせる。太陽が頭上に来るころには工程の3分の2を歩くわけだが、川に近づくこと数回また誰かが野営しただろう跡を見ること数回。ハイキングでも野営でもバックパッカーは”Leave no trace”ルールを守らねばならない。これは、「足跡以外は残すな、とっていくものは写真だけ、つぶすのは時間だけ」(Leave nothing but footprints, take nothing but pictures, kill nothing but time)ということで、自然とハイカーへの配慮である。

 歩く時はばてないように空腹のサインが出たらすぐ食べる。時間が惜しいときは、ナッツやドライフルーツなどの行動食で済ますことがあるが、急いでなければストーブでフリーズドライの野菜、パスタとソーセージでスープを作る。冷たい水はすぐそこを流れてくるので、スイス製のKatadyn社の0.3ミクロンのフィルターを通して水を得る。暖かい食べ物はやはりモラルブーストになる。川岸で腹ごしらえも終えて少し休んだ後は、野営地を軽く意識しながらテンカラ釣りを始める。

 竿を伸ばしラインとその先にティペットを繋ぐだけだ。ティペットの端には毛ばりが結ばれる。この毛ばりもいたってシンプルでフライフィッシングのそれとは異なる。私は一種類しか使わないが、それでも十分に釣果はある。難しいものではないからもちろん自分で巻く。竿約4メートルにラインとティペットを合わせて約6メートル。これで手首を使いチョンチョンと毛ばりを飛ばしていく。全てが軽いので、どんな小さなスポットでも確実に毛ばりを落とせる。

 トラウトはこの毛ばりを水生昆虫と間違え口にくわえるが、実際本物の餌ではないので0.2秒程で吐き出す。その間に毛ばりを合わせ釣るだけの釣法だ。ある程度の技術は要するが、水面下の見えない相手とやり合うのが実に楽しく興奮する。魚を釣る方法としてはフライフィッシングと全く同じアイデアだ。しかし、テンカラは日本の高低差のある渓流に完璧に適応した。そして、私の行く山にはそのような渓流が数多くある。もうテンカラしかない。

 夕方まで釣る。野営する平らな場所も上流に釣り上がりながら見つけて、テントを張る。Sierra Designs 製のバックパッキング用テントだ。このダブルウォールテントは時速50キロの風でもどんなに雨が降ろうとも中の人間を守ってくれる。川から少し離れたところにテントを張り、寝袋をテントの中に放り出しておく。

 食料のためと妥協したレインボートラウトとブラウントラウト。テントから離れて火の準備をする。魚さえ食べなければストーブだけで十分なのだが、魚と酒をやりたいのでファイヤーリングの石を積み作る。塩を多めにして焼いた魚と酒は旨い。一人で酒なんてと思われるかもしれないが、自然という設定の中での酒は格別だ。骨も軽く炙り鍋で直燗した酒に放り込んで骨酒を楽しんだ後は軽く炭水化物を取る。

 しばらく暖を取ったりして、火の処理をする。先の”Leave no trace”に従い形跡を残さず片付ける。なぜテントからわざわざ離れて食事を取るかというと、これはクマ対策でなるべく食物の匂いから距離を置くためだ。犬の6倍、人間の6000倍の嗅覚を持つクマにはくどいほど注意したほうがいい。歯磨きのチューブやリップクリームまで注意してジップロックに入れるかもしくは最初から持って行かない。

 歯磨きはここ一帯に生えているマンゼニータという潅木の葉を使えばいい。ブラシの様になっている葉を指の腹に乗せて充分に磨ける。今回はガラガラ蛇は見かけなかったが、クマはでるかもしれない。だから食物の匂いのするものは全てテントから遠ざける。かさ張るクマ対策用の食糧コンテイナーは持って来ていないので、クマが届かない高さの木の枝に食糧の入ったサックをロープで吊る。この方法もあまり効果がないと最近言われているが何もしないよりはましだろう。

 谷での夜は早く来る。日暮れのオレンジと夜空が満ちる時の濃紺のグラデーションは美しい。スリーピングパッドを敷いて夜空を仰ぐ。手を伸ばせば取れそうな星が満ちている。街で忙しい現代人の何人が夕日を見、星を仰ぐだろうか。夜空を縦に横に星が流れる。こうして眠くなるまで星を眺める。目的の湖までは到着しなかったが、これでおおいに結構。暗闇の中で正体不明の音で夜中に起きるかもしれない。そんな不安がかすかにあるが。

 自然の中で小さい自分を確認しながら寝袋に入る。ヘッドランプの明かりでソローの「森林生活」のページを繰りながら眠りに落ちる。明日の計画は? 目が覚めてから、ゆっくりコーヒーでも飲みながら先に進むか、寄り道するかをぼんやりと決めればいい。まだ食糧は1日分残っていてスコッチもあり、そしてテンカラもある。まだ旅は終わらない。



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